【バイクヒストリア】世界屈指のバイクメーカー「ホンダ」が誕生するまで
バイクで遊ぶ
数々の人気バイクを世に生み出してきた本田技研工業株式会社(ホンダ)は、バイクメーカーとして日本だけでなく世界においてもトップクラスの人気を誇っています。いまやバイク好きであれば知らぬ人などいないといっても過言ではないホンダ、始まりはいったいどのようなものだったのでしょうか。今回のバイクヒストリアは、日本が誇るバイクメーカーホンダの誕生の経緯について迫っていきます!
本田宗一郎の故郷浜松からホンダの歴史は始まった
ホンダの創業者である本田宗一郎氏は、1906年に静岡県の浜松市に生まれました。少年時代を浜松で過ごした本田氏は、高校卒業と同時に東京の自動車修理工場「アート商会」に入社。当初は丁稚奉公として、雑用や社長の子供の子守をすることが多かったそうです。
入社から6年が経ったとき、アート商会の社長よりのれん分けのかたちで独立を許され、本田氏は故郷浜松にアート商会の支店を設立します。その後は順調に事業を拡大。自動車修理だけでは物足りなくなっていた本田氏は、新たにピストリング製造をおこなう「東海精機重工業株式会社」を創業し、社長へと就任します。
その後、太平洋戦争や三河地震などの影響もあり保有していたすべての会社を手放した本田氏は、1945年に1年間の人間休業を宣言。それからちょうど1年が経った1946年、きっちり休むことで英気を養っていた本田氏は満を持して本田技術研究所(現在のホンダの前身)を浜松に設立しました。
入社から6年が経ったとき、アート商会の社長よりのれん分けのかたちで独立を許され、本田氏は故郷浜松にアート商会の支店を設立します。その後は順調に事業を拡大。自動車修理だけでは物足りなくなっていた本田氏は、新たにピストリング製造をおこなう「東海精機重工業株式会社」を創業し、社長へと就任します。
その後、太平洋戦争や三河地震などの影響もあり保有していたすべての会社を手放した本田氏は、1945年に1年間の人間休業を宣言。それからちょうど1年が経った1946年、きっちり休むことで英気を養っていた本田氏は満を持して本田技術研究所(現在のホンダの前身)を浜松に設立しました。
ホンダ初の製品は「バタバタ」
via pixabay.com
本田技術研究所を設立し、工作機械を工場に導入した本田氏は画期的な方法でバイクを開発します。客が持ってきていた自転車に、買い集めていた陸軍のエンジンを取り付け走らせることに成功したのです。これは通称「バタバタ」と呼ばれ、ホンダにとっては初の製品化したバイクとなりました。
1947年になると、これまでのような既存のエンジン改造ではなく「A型エンジン」というオリジナルエンジンを開発することに成功。その後もBMWなどといった外国のバイクを徹底的に分析するなどしてバイクの研究を進め、ついに1949年に本格的なオートバイ「ドリーム号」を完成させました。
1947年になると、これまでのような既存のエンジン改造ではなく「A型エンジン」というオリジナルエンジンを開発することに成功。その後もBMWなどといった外国のバイクを徹底的に分析するなどしてバイクの研究を進め、ついに1949年に本格的なオートバイ「ドリーム号」を完成させました。
東京移転と「カブ」生産により人気爆発
via pixabay.com
ドリーム号の完成などで勢いに乗り、さらなる飛躍を狙ったホンダは1952年に浜松から東京に本社を移転。また、本田氏が欧州を視察するなど、日本だけでなく世界を見据えた経営を始めていくことになります。
東京移転からまもなくして発売したバイクが、白いタンクと赤いエンジンカバーが特徴的な原動機付き自転車「カブF型」です。このカブF型は取り扱いが簡単で、女性でも気軽に乗れる点などが注目を集め、当時の業界全生産の7割を占めるほどの大ヒットを記録。
ホンダはその後発表した「スパーカブC100」においても大ヒットを記録。日本だけでなく世界でも高い評価を獲得し、今日の地位を築く礎となりました。
東京移転からまもなくして発売したバイクが、白いタンクと赤いエンジンカバーが特徴的な原動機付き自転車「カブF型」です。このカブF型は取り扱いが簡単で、女性でも気軽に乗れる点などが注目を集め、当時の業界全生産の7割を占めるほどの大ヒットを記録。
ホンダはその後発表した「スパーカブC100」においても大ヒットを記録。日本だけでなく世界でも高い評価を獲得し、今日の地位を築く礎となりました。
今後のホンダからも目が離せない!
日本のバイク業界を常に引っ張り続けてきたホンダ。バイク好きであれば、今後もホンダからは目が離せませんね!